レポート - REPORT

「俺なんか」

と思いながらも喜んで出演する。

「俺でなきゃ」と思いながらも「出来るかなぁ」と思う。

台本をもらい、監督から「こんな話、こんなことがしたい」と聴き、「あぁ、了解」と言ってはみるものの、実際に撮影してみるまで、もっと言えば出来上がった作品を何度か観るまでは、果たして監督が最初に言っていたことを僕は演技で表せていたのかわからない。

僕の言った「あぁ、了解」はいつも言葉に過ぎない。

別に最初に言っていたことになる必要も無いけど、僕は「最初の頃」に監督が言っていたことや、最初に自分が台本を読んだ時に感じたこと、考えたことを結果的に大事にしている。

だからといって台本を一度しか読まなかったり、撮影中監督と何も話さないというわけにはいかず、やはり、あれこれ考え右往左往しなければ、そこには辿り着けないような気がする。

また、僕は何かと都合良く考える性質なので「そんなこと最初に言ってない」と監督に言われようとも言われた気になってしまったということでそれは良しとしたい。

さっき「僕は演技で表せていたのかわからない。」と書いたが、僕はそもそも僕が何かを表現できるとも、また、役者は何かを表現しなければいけないとも思っていない。

僕はただ○○に見えるように演じるようとだけ心掛けている。

台本があり撮影現場があり、場合によっては共演者がいて、それだけの条件が揃っていれば、○○は決まってくる。

だから役者はその状況でやるべきことを演じることに集中すればよいのではないかと僕は思う。

「歩いて来る」と台本にあれば「歩いて来る」。

それだけであり、それだけをするということが今の僕にはまだまだとても難しい。

そんな僕の思考のことは放っておいていろいろと指示を出すのが演出である。

「アドリブ」

を求められることがある。

僕の解釈で極端な言い方をすると「何をしてもいい」ということになり、それは同時に「何もしなくていい」ということにもなる。

アドリブは体の動き、台詞に役者個人の自由が与えられているようでいて、実はそうではないと最近思うようになってきた。

アドリブというのは演出である。

「アドリブで」と指示を出すのは監督で、それを聞いた僕は「わーい好きに出来る」などと喜んだりするが、「アドリブで」という指示は演出されるという点において「ここで止まって台詞ね」という演出となんら違いは無いのではないだろうか。

「当たり前だ」と言う声も聞こえてきそうだが、僕は今までそれを勘違いしており、最近になりようやくそう思うようになった。

「アドリブ」は演出である。

監督が困り果てて言う「じゃぁ…アドリブで」も出来上がったときに良ければ、監督の良い演出となる。

悪くてもそう。

「でも僕悪くないもん。監督がOK出したからね」と僕はよく思うが、そんな自分にNGだ。

「台本を」

理解しようと考えることを怠る気は無いし、当然台本を読んであれこれ考えたり疑問に思ったりしたことを解決しようと試行錯誤するが、果たして台本を理解してなんになる。と思う。

映画の演技は、活字でも、理解する為の話し合いの場でもなく、役者の体と声と撮影現場の中の状況がカメラに写ったものがどう見えるかが全てではないか。

だから、台本を完全に理解しようがしまいがそんなことはどうだっていいのである。

大事なのは理解しようと努め、それを踏まえた上での肉体の動き(声を含む)である。と僕は思う。

台本を読み全体を意識した上で、忘れて、一つのシーン、カットに望めばおのずとそうやらざるを得ないことになってしまうのではないだろうか。

それを見て何か言ったり言わなかったりするのも演出だ。と僕は思う。

ひとつ前のページへ戻る

このページの上部へ戻る